センシュアルトーク<sensual talk>

官能的猥談 性ニマツワルエトセトラ

私は夫に何かを期待し過ぎている

ごきげんよう亀甲ウーマンです。

 

私は恋愛において、すぐに人をコントロールしようとしてしまいます。

なんなら、コントロールできそうな人しか好きになれないのかもしれないと思うほど。

 

コントロールするなんていうと、すごく悪い事のように感じるかもしれませんが、私の事を汲み取ってくれる優しい人という事です。

 

こうして欲しいと言ったら、そうしてくれる。

私の提案を否定しないで柔軟に対応してくれる。

こうして欲しいと言わなくても、そうしてくれる。

 

それは、私の事を愛しているから、もそうだけど、それが嫌じゃないから(優しさ、余裕)なんだと思う。

 

それを私がコントロールできていると勘違いしているだけ。

 

時に私は、私がした行動に対して良い反応をしてくれなかった時に

「怒ってるの?」

としつこく聞いてしまう。

 

「○○だから怒ってるんでしょ?」

「私が○○したから怒ってるんでしょ?」

 

しつこく言い続け、最終的には本当に怒られる。

 

最初は怒ってなくても、私があまりにもしつこい上に、私の〇〇が悪いから怒ってると自ら相手に擦り込みをわざわざするという非常に面倒臭い事をしてしまうのです。

 

私はこれを何十年も繰り返し繰り返ししてしまって、これは一体何なんだろうと思うほど、私は本当は怒られたいという性癖でもあるのではないかとさえ思います。

 

怒られたくないのに、わざわざ怒らせる。

別れたくないのにわざわざ「私と別れたいと思ってるんでしょ?」という。

嫌われたくないのにわざわざ「私の事きらいなんでしょ?」という。

 

こじらせてますね~。

 

先ほどコントロールの話をしましたが、コントロールしたいと思うのは相手が自分の思い通りになってほしいと「期待している」から。

 

そして私の場合、「期待しない」という事をしたくない、

という強い思いがある事に気が付きました。

 

それは私の中に「期待しない」=「嫌いになる」という思い込みがあったからです。

 

期待する=好き

期待しない=好きじゃない、嫌いになる(興味を失う)

という思い込み。

 

しかし、それは嘘なのです。

 

例えば、

私はペットの犬をどんな時も愛しています。

犬には何も期待をしていません。犬がたとえ期待に応えてくれたとしても、応えてくれなくても愛している事に変わりはない。嫌いになる事は出来ない。

 

子供の場合もそうだと思います。

親の期待に応えなかったとしても、それは愛さない事の基準にはならない。

愛している事に変わりはない。

 

「期待しない」という事が「愛していない」という事ではないという事を私は別の視点からは理解しているのです。

 

私は「期待しない=嫌いになる」という思い込みから、

私の根底には相手に嫌われる事よりも『私が』相手を「嫌いになる」事に恐怖を感じているという事が分かりました。

 

私の面倒くさい行動の裏側は「期待している=ちゃんと好きですよ」という事をわざと儀式的にやっているだけだったのです。

 

相手をコントロールして(したつもりになって)、期待して、期待に応えてもらう事が愛し愛されている事だと、またそうしないと愛してない、愛されてないと執着していたのです。

 

だから私は「期待する」という執着を手放します。

 

期待する執着をやめられなかったのは、嫌われる事よりも、嫌いになる事の方が怖くて手放す事ができなかった自分を知りました。

 

コントロールの効かない相手の気持ちよりも、自分の感情を失う事の方が私には怖かったのです。

 

期待しない事にこそ愛を感じる価値がある。

 

手放した先に本当の愛が存在するのかもしれない。